パンの袋
そっと・3分

パンの袋:自転車の前かごに、まだ何も入れてない

匿名の前かご派・3分・そっと

中古の自転車を買った。

六十二になって、初めて自分のために買った自転車だ。

通勤で乗ってたのは、あれは会社に行くための道具だった。三十五年、同じ道しか走らなかった。駅まで八分。雨の日はカッパ。パンクしたら修理して、また同じ道。

今度のは違う。どこに行くためでもない自転車。

店の人に「どういう用途で」と聞かれて、返事に困った。用途。用途はない。強いて言えば、暇つぶしだ。

前かごが大きいのを選んだ。

何を入れるかは決めてない。

女房には「海まで行く」と言ってある。ここから海までは、たぶん二十キロくらいある。この歳で走れる距離かどうか、わからない。

先週は、隣町のパン屋まで行った。片道四十分。

帰りに、前かごにパンの袋を入れて走った。袋がガサガサ鳴った。それだけのことが、妙に良かった。

若い頃は、二十キロなんて距離だと思ってなかった。今は大仕事だ。でも急ぐ理由がない。夏は暑いから、秋にする。秋にだめなら、春がある。

海に何があるわけでもない。着いたら、たぶん缶コーヒーでも飲んで帰ってくるだけだ。

それでも地図を見るのが、最近の楽しみになっている。海までの道は、三通りある。坂の少ないやつにしようと思う。

前かごには、そのとき何か入れるものがあるだろう。

なければないで、空のまま走ればいい。

― 匿名の前かご派

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