宿屋の看板
そっと・5分

宿屋の看板:魔法使いの忘れ物

匿名の旅人・5分・そっと

私が魔法学校を追放されたのは、18歳の春だった。

才能がなかったわけじゃない。むしろ、成績は良かった。でも、私は「禁じられた魔法」に手を出してしまった。理由は、今となってはどうでもいい。ただ、私は学校を追われ、魔法使いとしての未来を失った。

王都を離れ、辺境の小さな村に流れ着いた。誰も私のことを知らない。それがよかった。私は名前を変え、ただの行商人として生きることにした。

村の外れに、小さな宿屋があった。女主人は60歳くらいの、無愛想な女性だった。「泊まるのか?」と聞かれて、「はい」とだけ答えた。彼女は何も聞かなかった。それが、ありがたかった。

一週間が過ぎた。私は特に何もせず、宿屋の部屋で過ごしていた。お金はあった。学校を追放される前に、少しだけ貯めていた。それで、しばらくは生きていける。

ある朝、女主人が部屋のドアをノックした。「飯、食うか?」と聞かれた。私は「はい」と答えた。食堂に下りると、簡単な朝食が用意されていた。パン、スープ、チーズ。それだけだったけれど、温かかった。

女主人は私の向かいに座った。「魔法使いだろ」と言った。私は驚いた。「なんで」と聞くと、彼女は笑った。「手に、魔力の痕がある」

言い訳をしようとした。でも、彼女は手を振った。「別に、誰にも言わない。私も昔、魔法使いだった」

彼女も、追放されたのだという。もう40年も前のことだ。理由は違ったけれど、結末は同じだった。居場所を失い、この村に流れ着いた。そして、宿屋を始めた。

「最初は辛かった」と彼女は言った。「でも、人間は慣れる。魔法使いじゃなくても、生きていける」

それから、私は彼女の宿屋で働くことにした。掃除をしたり、料理を手伝ったり。魔法は使わない。手を動かして、体を動かして、働く。それが、不思議と心地よかった。

半年が過ぎた頃、私は彼女に聞いた。「なんで、私を助けてくれたんですか?」

彼女は窓の外を見ながら答えた。「昔、私も誰かに助けられたから」

それだけだった。彼女はそれ以上、何も言わなかった。

今、私はこの村で生きている。宿屋を手伝いながら、時々行商もする。魔法使いとしての人生は終わった。でも、新しい人生が始まった。

女主人は先月、静かに亡くなった。宿屋は、私が引き継ぐことになった。彼女の遺言だった。

宿屋の看板を磨きながら、私は思う。彼女が私にくれたのは、居場所だけじゃなかった。「やり直せる」という希望だった。

今、もし私のような誰かが、この宿屋のドアを叩いたら。私は、彼女がしてくれたように、迎え入れる。何も聞かない。ただ、温かい食事を出す。

そうやって、誰かの希望になれるなら。それが、私が彼女にできる、唯一の恩返しだから。

― 匿名の旅人

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