
…増えたのは時計の分じゃなくて、「まだ間に合う」の感じだったにゃ。
こんなやりとり、ないにゃ?
時間は、いつも足りない。
なのに、空を見て立ち止まった数分は、
なぜか「損した」気がしないにゃ。
あの「うわぁ…」には、
心理学の名前があるにゃ。
畏敬(いけい)。英語で awe にゃ。
スタンフォード大学とミネソタ大学のビジネススクールの心理学者、ラッドさん、ヴォースさん、アーカーさん(2012年)は、畏敬が時間の感じ方を変えるのかを、3つの実験で確かめたにゃ。
ひとつめの実験に来たのは、大学生63人。
まず全員に、ばらばらの単語を並べかえて文をつくってもらったにゃ。半分は「時間が足りない」という意味の文になるしかけ。全員を、少し時間に追われた気分にしておいたにゃ。
それから、薄型テレビのCMを60秒。
半分の人は、街や公園にいる人の前に、滝やくじら、宇宙に浮かぶ宇宙飛行士が現れるCM。もう半分は、虹色の紙ふぶきが舞って、笑顔のパレードが通るCM。どちらも気分がよくなる映像で、ちがうのは「圧倒される大きさ」があるかどうかだけにゃ。
最後に、「やりたいことをする時間はたっぷりある」「時間には限りがない」などに、どのくらいあてはまるかを答えてもらったにゃ。
「時間がある」と強く感じたのは、どっちのCMを見た人だったと思う?
グラフをよく見ると、滝やくじらを見た人も、まんなかより下にいるにゃ。最初に「時間が足りない」気分にされていたから、どちらも「時間がない」側から始まっているにゃ。
畏敬がしたのは、時間をたっぷりにすることじゃなかったにゃ。追われる感じを、少しゆるめた、くらいの差にゃ。
それでも、見のがせない差にゃ。
比べた相手は、楽しいCMだったにゃ。「気分がよくなったから余裕が出た」だけなら、パレードでも同じことが起きたはず。起きなかったということは、効いていたのは気分のよさとは別の何か、ということになるにゃ。
先に時間に追われる気分にしておいたのにも、わけがあるにゃ。畏敬を感じるのは、山や海に出かけた、もともと時間のあるときが多い。「ひまだから、うわぁとなれる」だけかもしれない。その見方を外すために、全員を同じ「時間がない」から始めたにゃ。
ふたつめの実験では、大学生86人に、自分の思い出を書いてもらったにゃ。半分は「畏敬を感じたとき」、半分は「幸せを感じたとき」。
畏敬の思い出を書いた人は、そのあと、いらいらした気持ちが少なかったにゃ。それから、よいことのために「時間を使う」気持ちと「お金を出す」気持ちを、それぞれ聞いたにゃ。
畏敬の思い出を書いた人で、強くなっていたのはどっち?
思い出の中身は、自然の景色、音楽や絵、自分がやりとげたこと、だれかのすごい姿、人とのやりとりと、いろいろだったにゃ。けれど、どの種類の思い出だったかで、いらいらの差は変わらなかったにゃ。畏敬の思い出が、のんびりした休みの日ばかりだったわけでもなかったにゃ。
エッフェル塔にのぼってパリを見下ろす話を読んだ人は、名もない塔からふつうの景色を見る話を読んだ人より、「時間がある」と感じていたにゃ。
腕時計かミュージカルのチケットか、ジャケットかレストランの食事か。5組の二択で体験のほうを選んだ割合は
エッフェル塔の話 / ふつうの塔の話。
「いまの自分の人生にどのくらい満足しているか」も、エッフェル塔の話を読んだ人のほうが高かったにゃ。
研究者たちが計算してみると、この差の多くは「時間がある」と感じた度合いで説明できたにゃ。時間の感じ方が先に動いて、選ぶものが変わった、という読み方にゃ。
研究者たちが挙げた説明は、いまにかかわるものにゃ。
圧倒されるものを前にすると、注意は「次に何をするか」から離れて、目の前で起きていることに吸いよせられる。そして、いまに注意が向いているときほど、時間は長く感じられる、という説が2003年に出されていたにゃ。この実験では「いまに集中したか」までは測っていないから、これはまだ説の段階にゃ。
畏敬という感情を、はじめて理論として整理したのは、同じ2003年の心理学者たちにゃ。畏敬には2つの芯がある、と考えたにゃ。
ひとつは、広大さ。大きさでも、数でも、技のすごさでも、とにかく自分の物差しをはみ出すもの。もうひとつは、それがいまの理解に収まらなくて、わかり方を作り直したくなること。
滝やくじらは大きいだけじゃなく、「こんなものがあるのか」と、ものの見方を少し揺らす。パレードは楽しいけれど、見方は揺らさない。2つのCMの差は、そこにあったのかもしれないにゃ。
日本語の「畏怖」や「畏れ」は、こわさの響きが強いにゃ。研究でいう awe は、おどろきや感嘆が中心で、雷や嵐のように少しこわさがまじることもある、幅のある気持ちにゃ。
畏敬のさなかには、「自分が小さくなった」と感じる人が多いことも、別の研究で確かめられているにゃ。自分の用事が小さく見えると、急ぐ理由も小さくなる。ねこたちは、時間の話とそこがつながっている気がしているにゃ。
2026年に、畏敬の有名な実験をいくつもくり返した研究が発表されたにゃ。そのひとつが、エッフェル塔の話の実験。前の倍以上の263人に、ネットで同じ話を読んでもらったにゃ。
追試では、時間の感じ方にも、体験を選ぶ割合にも、人生の満足感にも、差は出なかったにゃ。
ただ、この追試では、エッフェル塔の話を読んでも、畏敬そのものがあまり起きていなかったにゃ。ほかの回では、動画や思い出を書く方法で畏敬はちゃんと起きたのに、その先の変化は、ほとんど出てこなかったにゃ。
追試の研究者たちは、短い動画や文章の畏敬はひとさじ分で、その先を動かすには軽すぎるのかもしれない、と書いているにゃ。一方で、畏敬を強く感じた人ほど、いくつかの点で高い数字が出る傾向もあったにゃ。
「1分の映像で時間が増える」は、まだ確かとは言えない。でも、畏敬と時間の話そのものが消えたわけでもない。いまはそのあいだにいるにゃ。
2012年の実験は、テレビのCMを60秒、ただ見るところから始まったにゃ。
いまの日本で「時間」というと、まず浮かぶのは節約のほうかもしれないにゃ。
2022年、辞書の出版社が選ぶ「今年の新語」の大賞は「タイパ」だったにゃ。かけた時間に見合うかを気にして、動画は倍速、ドラマはあらすじから。
節約は、時計の分を増やす工夫にゃ。この実験で動いたのは、そっちじゃなくて「時間はある」の手ざわりのほうだったにゃ。倍速で浮いた10分が、すぐ次の用事に吸いこまれていくのは、手ざわりのほうが前のままだからかもしれないにゃ。
実験の滝やくじらは、ほかに何もせずに見る60秒だったにゃ。いまは絶景の写真や動画が毎日のように流れてくるけれど、親指ひとつで次へいくにゃ。
追試の「ひとさじでは軽すぎるのかも」を思い出すと、見た数はとても多いのに、「うわぁ…」が始まる前に次へ進んでいるのかもしれないにゃ。
お月見、花火大会、初日の出。日本の一年には、みんなで同じものを見上げる日が、いまも決まっているにゃ。
寒い朝にわざわざ起きたり、人ごみに出かけたりするのは、画面の60秒よりずっと大きな「うわぁ…」を、体ごと取りにいく昔からの知恵なのかもしれないにゃ。
あなたのいちばん最近の「うわぁ…」は、どれに近い?

滝やくじらのCMを見た人たちは、
1分ももらっていないにゃ。
むしろ、CMを見るのに
60秒つかっている。
用事は減っていない。
締め切りも動いていない。
それでも「まだ時間はある」の感じは、
少しだけ動いていたにゃ。
「時間がない」は、
時計を見て数えた答えのようでいて、
そのときの心の向きも、
答えに混ざっているのかもしれないにゃ。
ただ、追試では同じ結果が出なかった。
心の向きは、60秒の映像くらいでは
そう簡単に変わらない、
ということなのかもしれないにゃ。
ねこは、雲が流れていくのを
ずいぶん長く見ていることがあるにゃ。
あれを「ひまそう」と見るか、
「時間をたくさん持っている」と見るか。
ねこたちのあいだでも、
まだ意見が分かれているにゃ。
「うわぁ…」は、
時間を足すんじゃなくて、
時間の持ち方を
変えるのかもしれない。
画面の滝は、
親指ひとつで次へいくにゃ。
帰り道の空は、
次へいかない。
すごい色の日は、
写真は、十かぞえてから。
時計は十秒しか進まないにゃ。
その十秒がどのくらいの長さだったかは、
時計には書いてないにゃ。
猫の国は、優しい人のための場所にゃ。
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