
…おなかじゃなくて、相手の気持ちに合わせて量を決めていたのかもにゃ。
こんなこと、ないにゃ?
食べたかったわけじゃない。
でも、相手が食べているのに
自分だけ手を止めるのは、
なんだか気が引ける。
頼まれごとも、誘いも、
同じように断れない。
そんな「いい人」の小さなくせを、
お菓子のボウルひとつで
調べた人たちがいるにゃ。
アメリカの心理学者エクスラインさんたち(2012年)は、オハイオ州の大学で、約100人の学生に実験に来てもらったにゃ。
はじめに、質問紙で「人に合わせたい気持ち」の強さを測ったにゃ。心理学では「ソシオトロピー」と呼ばれるもので、人を喜ばせたい、波風を立てたくない、という気持ちのことにゃ。
質問には、こんなものがあったにゃ。
「まったくそう思わない」から「とてもそう思う」までの6段階で答えるにゃ。
部屋には、もうひとりの参加者がいたにゃ。じつは実験の協力者の女性にゃ。
実験者は「ちょっと資料を取ってくるね」と、チョコの入ったボウルを協力者に渡して部屋を出るにゃ。協力者はひとつかみ取って、「いる?」とボウルを回してくる。
あとで、参加者が取ったチョコの数を数えて、なぜその量にしたのかをたずねたにゃ。
「量を決めたのは、少なくとも一部は、相手を気楽にさせるためだった」と答えた人は、どのくらいいたと思う?
合わせて食べること自体は、だれにでもあるにゃ。2003年に、人といっしょに食べる研究をまとめた人たちは、いっしょにいる人がたくさん食べると、人はたくさん食べやすい、と整理しているにゃ。
この実験で見えたのは、その先のことにゃ。
人に合わせたい気持ちが強い人ほど、
チョコを多く取っていた。
ただしそれは、
「相手は私に食べてほしいんだ」と
感じた人のなかでだけ。
「相手はどっちでもいい」と感じた人のなかでは、
合わせたい気持ちの強さと取った数に
関係はなかった
合わせてしまう人は、いつでもだれにでも合わせているわけじゃないにゃ。相手の「こうしてほしい」を感じ取ったときに、スイッチが入るにゃ。
そして、おもしろいのはここにゃ。協力者は、だれに対してもほぼ同じ台本でふるまっていたにゃ。「食べてほしいんだ」は、受け取った側の読みだったにゃ。
研究者たちの説明は、こうにゃ。
相手が食べているときに自分だけ控えると、「我慢できる人」と「できない人」のように、差がついて見えてしまう。相手が「食べすぎたかな」と気にするかもしれない。その気まずさを消したくて、相手に合わせて食べる。
同じ論文の2つめの調査では、149人の学生に、だれかに「食べよう」とすすめられた実際の場面を思い出してもらったにゃ。
人に合わせたい気持ちが強い人ほど、「控えたら相手がいやな気持ちになる」と感じ、気がかりで、つらくなり、相手をなだめたくなって、押し切られて食べていたにゃ。そして、押し切られたと感じた場面ほど、あとで自分の選択に満足していなかったにゃ。
この心配は、まったくの思いすごしでもないにゃ。別の研究では、いっしょに食べた相手が自分より多く食べると、人はその相手のほうを好ましく感じていたにゃ。
実験の研究者たちが見ていたのは、いま、この場の気まずさだったにゃ。
いっぽう、カウンセリングの現場からは、もっと昔にさかのぼる説明も出ているにゃ。
アメリカのセラピスト、ピート・ウォーカーさんは、こわいことが起きたときの反応「戦う・逃げる・固まる」に、4つめとして「なだめる(fawn)」を加えたにゃ。相手の機嫌をとり、望みを先回りして満たすことで、自分を守るやり方にゃ。
安心できない家で育った子は、怒らせないように相手の顔色を読むことを早くから覚える。それが大人になっても続くことがある、と考えたにゃ。
これは人を集めて確かめた研究の結果ではなく、臨床家が自分の本で示した見立てにゃ。体の仕組みとしては「ポリヴェーガル理論」で説明されることも多いけれど、こちらは神経の前提に、専門家から強い異論が出ている説にゃ。
それでも、チョコの実験で、合わせる人のスイッチが「相手は食べてほしいんだ」という読みで入っていたこととは、どこかつながって見えるにゃ。顔色を読む力が、いつ、どこで育ったのか。そう考えてみる手がかりにはなりそうにゃ。
もちろん、合わせやすい人がみんな、安心できない家で育ったわけじゃないにゃ。
エクスラインさんたちの実験は、アメリカの大学生で、相手はいつも同じ女性ひとり。「食べてほしいんだ」と感じた人は40人ほどだったにゃ。年齢や国がちがえば、ちがう形になるかもしれないにゃ。
では、人に合わせるのは、よくないことなのかにゃ。
1998年に、4つの研究で、人に向かう気持ちを2つに分けて調べた人たちがいるにゃ。
人を気づかい、大事にしようとする気持ち。
人の問題にのめりこみ、自分のことは置き去りにする。自分の値打ちを、人からどう思われるかで測ってしまう。
ふたつは重なっているけれど、心のつらさや、自分を低く見る気持ちと結びついていたのは、ふたつめのほうだったにゃ。
人からの評価で自分の値打ちを測るから、人にのめりこみ、自分の世話がおろそかになる。それがつらさにつながる、という流れが見えたにゃ。
実験は、初対面の学生どうしが、数分間、チョコ数粒をやりとりしただけだったにゃ。
いまの私たちのまわりでは、食べものは、もっと人づきあいと結びついているにゃ。
旅行や出張のおみやげが机に回ってきて、ひとつ取って、「おいしかったです」まで言う。日本の職場ではよくある光景にゃ。くれた人の「食べてほしい」が、いちばん伝わりやすい場面かもしれないにゃ。ねこたちが思うに、「取らない」と「その場で食べる」のあいだに、「あとでいただきます」と持って帰る道もあるにゃ。
2つめの調査で思い出された場面の多くは、親しい人とのものだったにゃ。初対面より、仲のいい人のほうが、「控えたら悪いかな」は強くなるのかもしれないにゃ。ほんとうに食べたいのか、相手に合わせたいのか。注文の前に、一度だけ自分に聞いてみる手もあるにゃ。
論文の著者たちは、仕事の習慣など、食べること以外でも同じことが起きるか確かめたい、と書いているにゃ。みんなが残っている日に、自分だけ定時で帰る。「私だけ楽をしているように見えないかな」「残っている人を責めているみたいにならないかな」。そのためらいは、ボウルの前のためらいと、よく似ているかもしれないにゃ。
「ひとつどうぞ」と回ってきたとき、いまのあなたに近いのはどれ?

断れない自分を、
「気が弱いから」と
思ってきたかもしれないにゃ。
でも実験で見えたのは、
相手の気持ちを、
言われる前に読もうとする姿だったにゃ。
その読む力は、
どこかで自分を守るために
身につけたものかもしれないにゃ。
ただ、その読みは、
いつも当たっているとはかぎらないにゃ。
協力者は、同じ台本で
「いる?」と言っていただけだったにゃ。
相手は、ほんとうは
どっちでもよかったのかもしれないにゃ。
読む力がどこで育ったのかは、
チョコの実験からはわからないにゃ。
家の話は、臨床家の見立てにゃ。
同じ論文の調査でわかったのは、
そのあとのことにゃ。
押し切られて食べた場面ほど、
あとで自分の選択に
満足していなかった。
同じ「ひとつ」でも、
自分で取ったひとつと、
取らされたひとつがあるにゃ。
ボウルの前のためらいは、
その場の気まずさにゃ。
でも、断ったら何をされるかわからなくて、
体がこわばる相手がいるなら、
その「なだめる」は、いまも
身を守るために続いているのかもしれない。
その相手とのことは、ひとりで読み解かずに、
信頼できる人やニャンタル、専門家と
いっしょに見てほしいにゃ。
研究所からも、ひとつどうぞにゃ。
「いる?」は、
「食べて」という
お願いじゃないことも
多いにゃ。
相手の気持ちを読める人は、
自分のおなかの声も、
きっと読めるにゃ。
次にボウルが回ってきたら、
先に自分に
「いる?」と聞いてみてにゃ。
猫の国は、優しい人のための場所にゃ。
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