
…同じ「自分が悪い」でも、重さのちがうふたつがあるにゃ。
友だち4人のランチ。
お店を選んだのは、あなた。
何かあると、まず「自分が悪い」。
考えるより先に、そこに着いている。
でも、さっきの声をよく聞くと、
途中で責める先が変わっているにゃ。
最初は「予約」の話。
最後は「私という人」の話。
心理学者のジャノフ=バルマンさん(1979年)は、自分を責めることを、ふたつに分けて考えたにゃ。
ひとつは、自分のしたことを責める。「確かめずに予約したから」。
もうひとつは、自分という人を責める。「私はそういう人間だから」。
そしてアメリカの女子大学生たちに、気分の落ちこみをはかる質問票に答えてもらい、落ちこみが強めの組と、そうでない組に分けたにゃ。
そのうえで、うまくいかない4つの場面を想像してもらった。たとえば、車の事故。人に受け入れてもらえないこと。
場面ごとに、起きたことの責めがどこにあるかを答えてもらったにゃ。「自分という人」「自分のしたこと」「偶然」「ほかの人」「まわりの状況」。5つの欄に、それぞれどれくらいか。
ふたつの組で、はっきり差が出たのはどれだったと思う?
落ちこみが強めの組は、
「自分という人」を責める度合いが高かった。
「偶然」のせいと見る度合いも高く、
自分で状況を動かせるという感覚は弱かった。
「自分のしたこと」を責める度合いは、
ふたつの組でちがわなかった。
落ちこみが強めの人たちが、何でもかんでも多めに自分を責めていたわけではなかったにゃ。高かったのは「人柄」と「偶然」。どちらも、自分では動かしにくいものにゃ。
ランチのお店に戻ると、こうなるにゃ。
「口コミを見ずに予約した」なら、次は前の日に調べればいい。手が届く。
「私が決めるとうまくいかない」には、次の手がない。責めたあとに、することが残らないにゃ。
ただ、この研究は、同じときに聞いた答えを比べたものにゃ。人柄を責めるから落ちこむのか、落ちこんでいるから人柄を責めてしまうのか。どちらが先かは、ここからはわからないにゃ。
ジャノフ=バルマンさんは、ふたつの責め方は、見ている時間がちがうと考えたにゃ。
「したこと」を責める人は、これからを見ている。あのやり方を変えれば、次は防げる。
「自分という人」を責める人は、これまでを見ている。こういう人間だから、ああなって当然だった。
落ちこんでいる人は、「自分のせいだ」と強く思うのに、「自分にはどうにもできない」とも感じている。この食いちがいは、心理学でふしぎがられてきたにゃ。
責めているのが人柄なら、ふたつは並んで立つ。悪いのは自分。でも、自分という人は変えられない。彼女はそう説明してみせたにゃ。研究で確かめきった答えではなく、ひとつの説として出したものにゃ。
そもそも、なぜ責める先が自分になるのか。ずっと前に、スコットランドの精神分析家が、診察室での経験から、こんな見立てを書いているにゃ。
子どもは、頼るしかない大人を「悪い」と思うことができないとき、悪さを自分の側に引き受ける。悪いのが自分なら、世界のほうは、まだ頼れる場所のままでいられるから。
数を数えて確かめた研究ではない、臨床家の考えにゃ。それでも、ジャノフ=バルマンさんの見方と、どこか重なるにゃ。
「自分が悪い」と思えば、まだ打つ手がある。世界はでたらめじゃない。自分を責めることが、足もとを守るはたらきをしていた時期が、あったのかもしれないにゃ。
この分け方は、その後たくさんの研究で使われたにゃ。1994年に、それまでの研究を並べて見直した人たちがいるにゃ。
人柄を責めることが多い人ほど、落ちこみが強い。見つかった研究のなかに、逆の結果はひとつもなかったにゃ。
落ちこみが軽い側に出る研究もあれば、重い側に出る研究もあったにゃ。見直した人たちが自分で調べ直すと、したことを責めることも、人柄を責めることとは別に、落ちこみやさびしさと結びついていたにゃ。
だから、「したことを責めれば大丈夫」とまでは言えないにゃ。同じ場面を何十回も巻き戻して自分を責めれば、それはそれで重い。
10代の子たちを調べた別の研究では、人柄を責めることは「恥ずかしい」という気持ちと、ほとんどひとつのものとして測られていたにゃ。人柄を責めるときの痛みは、恥に近いのかもしれないにゃ。
研究の学生たちが答えたのは、1970年代のアメリカで、想像の場面について。
いまの日本で働く私たちは、じつは「責める先」を選ぶ練習を、仕事でしているかもしれないにゃ。
ミスのあとにまとめる「再発防止策」。「担当者の気がゆるんでいた」では、書類にならないにゃ。「確認の手順がひとつ抜けていた → チェック欄を足す」のように、次に変えられるものに落とす。研究の5つの欄でいえば、「人柄」の欄は使わず、「したこと」や「まわりの状況」の欄に書く書き方にゃ。
なのに、自分ひとりのことになると、同じ人が「私ってこういう人」で話を終えてしまう。対策の欄は空いたまま。ランチのお店なら、「次は前の日に一度、口コミを見る」と書けるにゃ。書こうとしても書けないなら、そもそも、あなたひとりで防げる話じゃなかったのかもしれないにゃ。
何かあると、まず本人の落ち度を探す。「自己責任」という言葉は、ニュースやSNSでよく見かけるようになったにゃ。研究の用紙には5つの欄があったけれど、この言葉は、「人柄」と「したこと」の欄しかない用紙を配るようなものかもしれないにゃ。ほかの人の欄、まわりの状況の欄も、もともと用紙には刷ってあるにゃ。
うまくいかなかった日の帰り道。最初に浮かぶのは、どれに近い?

ふたつの組で差が出たのは、
「自分という人」と「偶然」の欄。
「したこと」の欄は、
どちらの組も同じくらいだったにゃ。
落ちこみが強めの人たちは、
したことを人より多く
責めていたわけじゃなかったにゃ。
「自分を責めすぎる」と言うとき、
私たちは量の話をしがちにゃ。
もっと責めるのを減らさなきゃ、と。
けれど、この研究で分かれ道になっていたのは、
量より、宛先だったにゃ。
「私が悪い」が浮かんだら、
消そうとする前に、
宛先をひとつ聞いてみる。
「私の、どこが?」
予約の話なら、次の手が書ける。
書けないなら、宛先がいつのまにか
「私という人」になっているか、
もともと、あなたの欄の話じゃないのかもしれない。
半世紀前の学生たちが、
想像の場面に答えた用紙から
引いてきた見立てにゃ。
ジャノフ=バルマンさんの見立てでは、
ふたつの「私のせい」は、
見ている時間がちがったにゃ。
「私って、こういう人」は
きのうまでの話。
「次は、こうする」は
あしたの話にゃ。
ランチのお店なら、
「次は前の日に、口コミを見る」。
一行書けたら、今日の反省はそこまで。
一行も書けなかったら、
あの日は、雨のせい
だったのかもしれないにゃ。
猫の国は、自分を責めすぎてしまう人のための場所でもあるにゃ。
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