居酒屋の箸
ずっしり・4分

居酒屋の箸:怒鳴り声が聞こえると、体が固まる

匿名の固まる人・4分・ずっしり

居酒屋で、隣のテーブルの男の人が怒鳴った。

店員さんに何か文句を言ってる。たぶん注文が間違ってたとか、そんなこと。

私には関係ない。分かってる。

でも、体が固まった。

箸を持ったまま、動けなくなった。心臓がバクバクして、息が浅くなる。逃げなきゃ、って頭のどこかで思ってる。

友達が「大丈夫?」って聞いてきた。

「うん、ちょっとびっくりしただけ」

嘘ついた。びっくりしたんじゃない。怖かった。

子どもの頃、父がよく怒鳴る人だった。

何がきっかけか分からない。機嫌が悪いと、急に声が大きくなる。母に怒鳴る。私に怒鳴る。物を投げることもあった。

殴られたことは、あんまりない。だから虐待って言っていいのか、今でも分からない。

でも、毎日怖かった。

父が帰ってくる時間になると、体がこわばった。玄関のドアが開く音。足音。それだけで心臓がぎゅってなる。

今日の父は怒るかな。怒らないかな。

毎日、それを考えてた。

大人になって、家を出た。

もう怒鳴られることはない。安全な場所にいる。分かってる。

でも、体が覚えてる。

大きな声。ドアがバンって閉まる音。誰かがイライラしてる気配。

そういうのを感じると、あの頃に戻る。5歳の私が、部屋の隅で縮こまってる。

彼氏ができたことがある。

優しい人だった。でも一度だけ、喧嘩した時に声を荒げた。

その瞬間、涙が止まらなくなった。過呼吸みたいになって、しゃがみこんだ。

彼は驚いてた。「そんなに怒ってないよ」って。

分かってる。分かってるけど、体が分かってくれない。

それから関係がぎくしゃくして、別れた。

自分が嫌になった。いつまで引きずってるんだろう。もう何年も前のことなのに。

ある人に言われた。

「それ、あなたのせいじゃないよ。体が自分を守ろうとしてるだけだよ」

守る。何から?

「昔、危なかったことから。体がまだ覚えてて、同じことが起きないように警戒してるんだよ」

そう言われて、少し泣いた。

私の体は、私を守ろうとしてくれてたのか。

過剰に反応するのも、固まるのも、逃げたくなるのも、全部、あの頃の私を守るため。

そう思ったら、自分を責めるのが少しだけ減った。

今でも怒鳴り声は怖い。たぶんこれからも怖い。

でも、「怖い」って思っていいんだって、分かった。

体が覚えてるなら、しょうがない。

少しずつ、「今は安全だよ」って教えていくしかない。

何年かかるか分からない。一生かかるかもしれない。

それでも、前よりは楽になった。

自分がおかしいんじゃなくて、あの頃が異常だったんだって、やっと思えるようになった。

― 匿名の固まる人

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