居酒屋で、隣のテーブルの男の人が怒鳴った。
店員さんに何か文句を言ってる。たぶん注文が間違ってたとか、そんなこと。
私には関係ない。分かってる。
でも、体が固まった。
箸を持ったまま、動けなくなった。心臓がバクバクして、息が浅くなる。逃げなきゃ、って頭のどこかで思ってる。
友達が「大丈夫?」って聞いてきた。
「うん、ちょっとびっくりしただけ」
嘘ついた。びっくりしたんじゃない。怖かった。
子どもの頃、父がよく怒鳴る人だった。
何がきっかけか分からない。機嫌が悪いと、急に声が大きくなる。母に怒鳴る。私に怒鳴る。物を投げることもあった。
殴られたことは、あんまりない。だから虐待って言っていいのか、今でも分からない。
でも、毎日怖かった。
父が帰ってくる時間になると、体がこわばった。玄関のドアが開く音。足音。それだけで心臓がぎゅってなる。
今日の父は怒るかな。怒らないかな。
毎日、それを考えてた。
大人になって、家を出た。
もう怒鳴られることはない。安全な場所にいる。分かってる。
でも、体が覚えてる。
大きな声。ドアがバンって閉まる音。誰かがイライラしてる気配。
そういうのを感じると、あの頃に戻る。5歳の私が、部屋の隅で縮こまってる。
彼氏ができたことがある。
優しい人だった。でも一度だけ、喧嘩した時に声を荒げた。
その瞬間、涙が止まらなくなった。過呼吸みたいになって、しゃがみこんだ。
彼は驚いてた。「そんなに怒ってないよ」って。
分かってる。分かってるけど、体が分かってくれない。
それから関係がぎくしゃくして、別れた。
自分が嫌になった。いつまで引きずってるんだろう。もう何年も前のことなのに。
ある人に言われた。
「それ、あなたのせいじゃないよ。体が自分を守ろうとしてるだけだよ」
守る。何から?
「昔、危なかったことから。体がまだ覚えてて、同じことが起きないように警戒してるんだよ」
そう言われて、少し泣いた。
私の体は、私を守ろうとしてくれてたのか。
過剰に反応するのも、固まるのも、逃げたくなるのも、全部、あの頃の私を守るため。
そう思ったら、自分を責めるのが少しだけ減った。
今でも怒鳴り声は怖い。たぶんこれからも怖い。
でも、「怖い」って思っていいんだって、分かった。
体が覚えてるなら、しょうがない。
少しずつ、「今は安全だよ」って教えていくしかない。
何年かかるか分からない。一生かかるかもしれない。
それでも、前よりは楽になった。
自分がおかしいんじゃなくて、あの頃が異常だったんだって、やっと思えるようになった。
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