クリニックの待合室は、思っていたより普通だった。
壁にポスターが貼ってある。観葉植物がある。雑誌が並んでいる。
もっと重たい場所を想像してた。「心療内科」という看板を見上げた時、足が止まりかけた。ここに入ったら、自分が「そういう人」になってしまう気がした。
予約を取ったのは、同期に勧められたから。
3回目の欠勤のあと、「一回、病院行ってみたら?」と言われた。心配してくれてた。ずっと。
「私、そこまでじゃないと思うんだけど」
「そこまでじゃない人は、3回も会社休まないよ」
何も言い返せなかった。
名前を呼ばれて、診察室に入った。先生は50代くらいの男の人で、穏やかな顔をしてた。
「どうされましたか」
どうされましたか。何から話せばいいか分からなかった。
「あの、仕事に……行けない日が、あって」
「いつ頃からですか」
「先月くらいから。3回くらい」
「3回。きっかけは何か思い当たりますか」
「……特にないです。朝、動けなくなるんです」
先生はうなずいた。責められるかと思った。「それくらいで」と言われるかと思った。
でも先生は、「眠れてますか」と聞いた。
眠れてるかどうか。眠れてると思ってた。でも、考えてみたら、夜中に何度も目が覚める。寝る前にぐるぐる考える。朝起きた時、寝た気がしない。
「……あんまり眠れてないかもしれません」
「食欲は?」
「食べてますけど、おいしいとは思わなくなりました」
先生は、いくつか質問をして、メモを取って、少し黙った。
「適応障害、という状態だと思います」
適応障害。
聞いたことはある。でも、自分の名前の横に置かれると、急に知らない言葉みたいになった。
「ストレスの蓄積で、心と身体が『もう無理です』と言ってる状態です。原因がひとつじゃないことも多いですよ」
原因がひとつじゃない。
それを聞いた時、少しだけホッとした。ずっと「原因が分からない」ことが怖かった。何がきっかけか分からないのに動けなくなる自分が、おかしいと思ってた。
でも、「ひとつじゃない」なら、分からなくて当然なのかもしれない。
「診断書、書きましょうか。会社に出すなら必要でしょうから」
診断書。紙一枚で、「あなたは休んでいい」と証明されるもの。
「……はい。お願いします」
帰り道、封筒を持って歩いた。中に診断書が入ってる。
「適応障害により、1ヶ月間の休養を要する」
この紙を上司に出したら、私は正式に「休職する人」になる。
出したくなかった。出さなければ、まだ「ちょっと体調が悪い人」でいられる。
でも、ちょっと体調が悪い人のふりを続けるのも、もう限界だった。
駅前のドトールに入って、コーヒーを頼んで、封筒をテーブルに置いた。
しばらく眺めてた。
これは、逃げなのかな。
それとも、やっと正しいことをしてるのかな。
コーヒーが冷めるまで、答えは出なかった。
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