息子が家を出た日、私は泣かなかった。
「頑張ってね」と笑顔で見送った。夫と二人、手を振った。息子は振り返らずに歩いて行った。それでいいと思った。
でも、家に戻った瞬間、急に静かになった。
息子の部屋は空っぽだった。ベッドも、机も、すべて持って行った。カーテンだけが、風に揺れていた。
これから、どうしよう。
20年間、私は「母親」だった。朝ごはんを作って、お弁当を詰めて、洗濯をして、夜ご飯を作って。息子の予定を把握して、部活の送り迎えをして、進路の相談に乗って。
すべてが、息子を中心に回っていた。それが当たり前だった。でも今、息子はいない。
夫は相変わらず仕事で忙しい。朝早く出て、夜遅く帰る。休日もゴルフや付き合いで、ほとんど家にいない。夫婦二人の時間なんて、ほとんどない。
一人で過ごす時間が、急に増えた。最初は「やっと自由になった」と思った。好きな時に出かけられる。好きなものを食べられる。誰かのスケジュールに合わせなくていい。
でも、数週間経った頃、気づいた。
私には、何もない。
趣味もない。友達もほとんどいない。仕事はパートで、やりがいなんて感じたことがない。子育てが終わった今、私は何者なんだろう。
ある日、スーパーで買い物をしていたら、昔の同僚に会った。彼女は、バリバリ働いていて、キラキラしていた。
「久しぶり!元気だった?」
「うん、まあまあ」
彼女は仕事の話、趣味の話、色々話してくれた。私は、何も話すことがなかった。子どもが独立したこと。それくらいしか、話題がなかった。
家に帰って、鏡を見た。そこにいるのは、疲れた中年の女性だった。いつの間にか、こんなに老けていたんだ。
「このままでいいのか?」
自分に問いかけた。でも、答えは出なかった。
それから数ヶ月、ぼんやりと過ごした。夫に「最近元気ないけど、大丈夫?」と聞かれた。「大丈夫」と答えたけど、大丈夫じゃなかった。
ある日、図書館で本を借りた。タイトルは「50代からの生き方」。読んでみたら、同じような悩みを抱えている人がたくさんいることを知った。
「空の巣症候群」という言葉も、初めて知った。子育てが終わって、喪失感を抱える母親たち。私だけじゃなかったんだ。
本には、色々な提案が書いてあった。新しい趣味を見つける。資格を取る。ボランティアをする。友達を作る。
どれも、すぐにはできなかった。でも、少しずつ試してみようと思った。
まずは、近所のヨガ教室に通い始めた。体が硬くて、ポーズが全然できなかった。でも、先生は優しくて、周りの人も温かかった。
次に、パソコン教室に行った。エクセルとワードを習った。難しかったけど、少しずつできるようになった。
そして今、私は資格の勉強をしている。介護の資格。取れるかどうか分からない。でも、やってみたいと思った。
子育てが終わった今、私には何もない。でも、これから作ればいい。新しい自分を、ゆっくりと。
息子は、たまに電話をくれる。「元気?」と。私は「元気だよ、頑張ってるよ」と答える。それは、嘘じゃない。
もしあなたも、子育てが終わって空虚感を抱えているなら、焦らなくていい。今は何もなくても、これから見つければいい。
私はまだ、模索中だ。でも、少しずつ前に進んでいる。それだけで、十分だと思う。
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*© 2025 匿名の母*