あの朝、私は電車のホームの端に立っていた。
黄色い線の、さらに前。ホームの縁。
電車が来る。飛び込めば、終わる。そう思った。
毎朝、この駅を使っていた。でもこの日は、会社に行くつもりじゃなかった。ただ、ここで終わらせるつもりだった。
もう、限界だった。
仕事は地獄。毎日怒鳴られて、人格を否定されて。家に帰っても、誰もいない。友達もいない。家族とも疎遠。
「誰も、私がいなくなっても困らない」
そう思った。むしろ、いない方が周りも楽なんじゃないか。
遺書は書かなかった。誰に宛てて書けばいいのか、分からなかった。
ホームに立った。通勤ラッシュの時間。周りには、たくさんの人がいた。でも、誰も私のことなんて見ていない。
電車が来るアナウンスが流れた。
線路の向こうから、ライトが見えた。音が近づいてくる。
「今だ」
そう思った。一歩踏み出せば、すべてが終わる。
体に力を入れた。足を前に出そうとした。
でも、出せなかった。
体が、動かなかった。頭では「飛び込もう」と思っているのに、足が動かない。
電車が入ってきた。轟音。風。
私は、ただそこに立っていた。
電車が止まった。ドアが開いた。人が降りて、人が乗った。私は、乗らなかった。
ドアが閉まった。電車が出ていった。
私は、まだホームにいた。
なんで、飛び込めなかったんだろう。
怖かったのか。痛いのが嫌だったのか。それとも、本当は死にたくなかったのか。
分からなかった。
次の電車が来た。また、飛び込めなかった。
その次も。その次も。
気づいたら、1時間そこに立っていた。
ホームの端で、ただぼんやりと電車を見送っていた。
駅員さんが、声をかけてきた。
「お客さん、大丈夫ですか?」
その言葉を聞いた瞬間、泣き崩れた。ホームで、人目も気にせず泣いた。
駅員さんは、優しく肩に手を置いてくれた。
「辛かったですね」
その言葉に、また泣いた。
駅員室に連れて行かれた。お茶を出してもらった。
「誰か、連絡できる人はいますか?」
いない。そう言おうとして、思い出した。昔の友達の番号が、まだスマホに残っていた。
駅員さんが、代わりに電話してくれた。友達は、すぐに駅に来てくれた。
「どうしたの?」
友達は、心配そうに聞いてきた。何年も連絡してなかったのに、駆けつけてくれた。
その日、友達は仕事を休んで、ずっと一緒にいてくれた。病院にも付き添ってくれた。
先生に、正直に話した。死のうとしたこと。でも、できなかったこと。
先生は言った。
「体が、あなたを守ったんですね」
その言葉が、心に残った。
頭では死にたいと思っていた。でも、体は生きたがっていた。
それから、治療が始まった。すぐには良くならなかった。でも、少しずつ、霧が晴れていった。
今でも、あのホームを通る。電車に乗る。でも、もう端には立たない。
あの日、一歩踏み出せなくて良かった。体が止めてくれて良かった。
もしあなたも、今ホームの端に立っているなら、一歩踏み出さないでほしい。
体は、あなたを守ろうとしている。生きたがっている。
その声を、聞いてあげてほしい。
私は、あの日死ななかった。そして今、生きている。
まだ辛い日もある。でも、生きていて良かったと思える日も、少しずつ増えてきた。
それだけで、十分だと思う。
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