駅員室のお茶
ずっしり・5分

駅員室のお茶:電車のホームで、一歩踏み出せなかった

匿名の通勤者・5分・ずっしり

あの朝、私は電車のホームの端に立っていた。

黄色い線の、さらに前。ホームの縁。

電車が来る。飛び込めば、終わる。そう思った。

毎朝、この駅を使っていた。でもこの日は、会社に行くつもりじゃなかった。ただ、ここで終わらせるつもりだった。

もう、限界だった。

仕事は地獄。毎日怒鳴られて、人格を否定されて。家に帰っても、誰もいない。友達もいない。家族とも疎遠。

「誰も、私がいなくなっても困らない」

そう思った。むしろ、いない方が周りも楽なんじゃないか。

遺書は書かなかった。誰に宛てて書けばいいのか、分からなかった。

ホームに立った。通勤ラッシュの時間。周りには、たくさんの人がいた。でも、誰も私のことなんて見ていない。

電車が来るアナウンスが流れた。

線路の向こうから、ライトが見えた。音が近づいてくる。

「今だ」

そう思った。一歩踏み出せば、すべてが終わる。

体に力を入れた。足を前に出そうとした。

でも、出せなかった。

体が、動かなかった。頭では「飛び込もう」と思っているのに、足が動かない。

電車が入ってきた。轟音。風。

私は、ただそこに立っていた。

電車が止まった。ドアが開いた。人が降りて、人が乗った。私は、乗らなかった。

ドアが閉まった。電車が出ていった。

私は、まだホームにいた。

なんで、飛び込めなかったんだろう。

怖かったのか。痛いのが嫌だったのか。それとも、本当は死にたくなかったのか。

分からなかった。

次の電車が来た。また、飛び込めなかった。

その次も。その次も。

気づいたら、1時間そこに立っていた。

ホームの端で、ただぼんやりと電車を見送っていた。

駅員さんが、声をかけてきた。

「お客さん、大丈夫ですか?」

その言葉を聞いた瞬間、泣き崩れた。ホームで、人目も気にせず泣いた。

駅員さんは、優しく肩に手を置いてくれた。

「辛かったですね」

その言葉に、また泣いた。

駅員室に連れて行かれた。お茶を出してもらった。

「誰か、連絡できる人はいますか?」

いない。そう言おうとして、思い出した。昔の友達の番号が、まだスマホに残っていた。

駅員さんが、代わりに電話してくれた。友達は、すぐに駅に来てくれた。

「どうしたの?」

友達は、心配そうに聞いてきた。何年も連絡してなかったのに、駆けつけてくれた。

その日、友達は仕事を休んで、ずっと一緒にいてくれた。病院にも付き添ってくれた。

先生に、正直に話した。死のうとしたこと。でも、できなかったこと。

先生は言った。

「体が、あなたを守ったんですね」

その言葉が、心に残った。

頭では死にたいと思っていた。でも、体は生きたがっていた。

それから、治療が始まった。すぐには良くならなかった。でも、少しずつ、霧が晴れていった。

今でも、あのホームを通る。電車に乗る。でも、もう端には立たない。

あの日、一歩踏み出せなくて良かった。体が止めてくれて良かった。

もしあなたも、今ホームの端に立っているなら、一歩踏み出さないでほしい。

体は、あなたを守ろうとしている。生きたがっている。

その声を、聞いてあげてほしい。

私は、あの日死ななかった。そして今、生きている。

まだ辛い日もある。でも、生きていて良かったと思える日も、少しずつ増えてきた。

それだけで、十分だと思う。

― 匿名の通勤者

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